HOME

マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』[1845-46→1926=1996]

新日本出版社(服部文男監訳)また合同出版(花崎訳)も参照。

 

・マルクス27歳、エンゲルス25歳のときに書かれた草稿。1845年、マルクス=エンゲルス『神聖家族』、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』を出版している。『ドイツ・イデオロギー』の執筆直後、二人はマンチェスターに研究旅行。この時、図書館で抜粋したノートが「マンチェスター・ノート」である。ノートにしてマルクス5冊、エンゲルス3冊、あわせて500ページを越える。

 

第一章 フォイエルバッハ。唯物論的なみかたと観念論的なみかたとの対立

T

◆唯物論的歴史観が立脚する諸前提

・われわれが出発する前提は、「現実的な諸個人、かれらの行動、および彼らの物質的な生活諸条件である。」(17)

・「人間は、意識によって、宗教によって、その他お望みのものによって、動物から区別されることができる。人間自身は、かれらがその生活手段を生産——すなわち彼らの身体的組織によって条件づけられている措置——しはじめるや否や、みずからを動物から区別しはじめる。」(17-18)

・生産の様式=「個人の活動のある特定の方法、彼らの生命を表出するある特定の方法、かれらのある特定の生活様式」(18)→「彼らがなんであるかは、彼らの生産と、すなわちかれらが何を生産するのか、また、いかに生産するのかと一致する。したがって、諸個人が何であるかは、かれらの生産の物質的諸条件に依存する。」

・「この生産は、ようやく人口の増加とともにはじまる。人口の増加はそれ自体ふたたび諸個人相互のあいだの交通(Verkehr)を前提とする。この交通の形態は、こんどは生産によって条件づけられている。」

◇生産と交通、分業と所有諸形態=部族的、古代的、封建的(32-)

・部族所有→「古代の共同体所有および国家所有」→「封建的あるいは身分的所有」

 

◆唯物論的歴史観の本質、社会的存在と社会的意識

・「諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間の物質的活動と物質的交通という現実生活の言語に編み込まれている。人間の観念作用、思考作用、すなわち精神的交通は、ここではまたかれらの物質的生活態度の直接的な流出として現れる。ある民族の政治、法、道徳、宗教、形而上学などの言語のなかに現れるような精神的生産についても同じことがあてはまる。人間たちはかれらの諸観念、諸思想などの生産者であるが、しかし彼らは、かれらの生産諸力とこれに照応する交通とのある特定の発展よって、交通のはるか先の諸形態に至るまで条件づけられているような、現実的な、活動する人間たちである。」(27)

・「人間たちの頭脳における霧のような[ぼんやりとした]形象も、かれらの物質的な、経験的に確かめうる、かつ物質的諸前提に結びついた生産過程の必然的な昇華物である。こうなると道徳、宗教、形而上学その他のイデオロギーおよびそれらに照応する意識諸形態は、もはや自律性という外観をこれ以上たもてない。それらは歴史をもたない、それらは発展しない。逆に、自分の物質的生産と物質的交通とを発展させる人間たちが、こうした彼らの現実とともに、かれらの思考活動とこの思考活動の所産とをも変革するのである。」(27-28)

 

 

U

◆人間の現実的解放の諸条件

・「《解放》は歴史的事業であって思想の事業ではない。そして解放は、歴史的な諸関係によって、すなわち工業、商業、農業、交通……の状態によって実現される。」(30)

 

◆フォイエルバッハの唯物論の直観性と不徹底性への批判

・「現実において、そして実践的な唯物論者、すなわち共産主義者たちにとって重要なのは、現存する世界を変革することであり、既成[眼前]の事態を実践的に攻撃し、変更することである。」(31)

・「最も単純な《感性的確信(sinnliche Gewißheit)》[ヘーゲル『精神現象学』の最初の意識の段階]の諸対象でさえ、ただ社会的発展、すなわち産業と商業交通によってはじめて、かれに与えられるのである。サクランボの木は、周知のように、ほとんどすべての果実と同様、ほんの数世紀前にはじめて、交易によってわれわれの地域へ移植されたものである。それゆえ特定の時代の特定の社会のこうした活動を通じて、はじめてフォイエルバッハの《感性的確信》に与えられたのである。」(32)

・「産業と交易がなかったらどうして自然科学などありえようか。この《純粋な》自然科学でさえ、やはりその目的をも素材をも、交易と産業によって、人間の感性的活動によって、はじめて受け取るのである。」(33)

 

◆歴史の本源的関係、あるいは社会的活動の基本的諸側面、生活手段の生産、あたらしい要求の産出、人間の生産(家族)、交通、意識

・第一の歴史的行為(全歴史の根本条件):食べること、飲むこと、住居、衣料その他若干の要求を満たすための諸手段の産出、物質的生活そのものの生産。(35)

・「第二に重要なことは、この最初の要求が満たされたこと自体、充足の行為、およびすでに獲得された充足の用具が、あたらしい諸要求をもたらすということであり、——そして、新しい諸欲求のこの産出が最初の歴史的行為である」(35-36)

・「第三の事態は、人間たちが他の人間たちをつくりはじめる、すなわち繁殖しはじめる、ということである——男と女、夫と妻、両親と子供達との関係、家族」(36)

・第四の事態:生活の生産における二つの側面:自然関係と社会関係(58)

→「特定の生産様式または特定の工業段階は、いつでも特定の協業様式または特定の社会段階と結びついており、この協業様式が、それ自体一つの《生産力》であること。人間たちが利用できる生産諸力の分量が社会状態を条件づけること。それゆえ、《人類の歴史》はいつでも、産業および交換の歴史との関連のなかで研究され、仕上げられなければならないということ。……すでに最初から人間相互間の唯物論的関連が現れるが、その関連は諸欲求と生産の様式とによって条件づけられており、そして人間たちと同じくらいに古い。」(37)

 

◆意識・言語・応答関係

・「言語は、意識と同様に、他の人間たちとの交通の欲求や必要からはじめて生まれる。したがって、意識は最初からすでに社会的な産物であり、およそ人間があるかぎりそうでありつづける。」(38)

・「なんらかの応答関係(ein Verhältnis)が存在する場合、その関係は、私にとって存在している。動物は、何に対しても《応答し》ない。およそ応答関係をもたない。動物にとっては、他のものへの彼の応答関係は、応答関係としては顕在化しない。」(38)[欄外注記]

 

◆分業

・「分業は、物質的労働と精神的労働との分割があらわれる瞬間から、はじめて真に分業となる。この瞬間から、意識は現にある実践の意識とはなにか違ったものと、思い込むことが実際にできるし、現実的な何かあるものを思い浮かべなくとも、何かあるものを現実的に思い浮かべていると実際に思い込むことができるようになる。——この瞬間から、意識は世界から解放されて《純粋》理論、神学、哲学、道徳などの形成にうつることが可能になる。しかし、たとえこうした理論、神学、哲学、道徳などが、現存の諸関係との矛盾に陥るとしても、そのことは、現存する社会諸関係が、現存する生産力との矛盾におちいることによってのみ、おこりうるのである。」(39-40)

・「われわれが得られるのは、ただ一つの結論、すなわち、これら三つの契機、生産力、社会状態、意識は、相互に矛盾に陥りうるし、また、おちいらずにはいない、ということにほかならない。なぜなら、分業とともに、精神的活動と物質的活動、享受と労働、生産と消費が、別々の個人に属する可能性が、いやむしろ現実性が与えられているからであり、そして、それらが矛盾に陥らない可能性は、分業が再び廃止されることのなかにだけあるからである。」(40)

 

◆社会的分業とその諸結果=私的所有、国家、社会的活動の《疎外》

・分業とともに所有が生ずる。

→「特殊利害」(各個人あるいは各家族の利害)と「共同利害」(相互に交通しあうすべての諸個人の共同の利害)とのあいだの矛盾が生ずる。

→「共同の利害」は国家として、現実的な(個別的であり総体的であるような)利害から切り離された自律した姿をとる。

→幻想の共同性=階級という実在的土台のうえに立っている利害。国家内部の闘争は階級間の闘争である。(43)[エンゲルスの欄外注記]

・「諸個人は、ただかれらの特殊な利害、かれらにとって、かれらの共同の利害とは一致しない利害のみを追求するからこそ、またおよそその普遍的なものというのは、共同性の幻想的な形態であるからこそ、その普遍的なものは、かれらにとって《疎遠な》、かれらから《独立》なもの、それ自体ふたたび特殊な、《普遍》-利害とみなされるのである。あるいは民主制の場合のように、諸個人自身、この分裂のうちで動かざるをえない。他方で、共同の、および共同と幻想される利害に対して、たえず実際上対立してあらわれる諸特殊利害の実践的闘争は、国家としての幻想的な《普遍》-利害による実践的介入と制御を必要にさせる。」(44)[マルクスの欄外注記]

 

・「[分業は、]人間たちが自然成長的な社会に住むかぎり、またしたがって特殊利害と共同利害との分裂が存在するかぎり、したがって、活動もそれゆえ自由意志的ではなく、自然成長的に分割されているかぎり、人間自身の行為が、彼にとって疎遠な、対抗的な力となり、彼がその力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつけるということの最初の例証である。すなわち、労働が分割されはじめるや否や、各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、そこから抜け出すことができなくなる。」(43-44)

 

◆共産主義の理想的な生活像

・「これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲ももたず、それぞれの任意の[どこでもすきな]部門で、自分を発達させることができるのであって、社会が生産全般を規制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよいのである。」(44)

 

・「幾倍にもなった生産力は、これら諸個人には、その協働そのものが自由意志的ではなくて、自然成長的であるため、彼ら自身の結合された力としてはあらわれず、むしろなにか疎遠な、かれらの外に立つ強制力としてあらわれる……」(45)

・「個人や国々の産物の交換でしかない商業が、需要と供給の関係……を通じて全世界を支配するようになるのはなぜか。——これに対して、私的所有という土台の廃止とともに、生産の共産主義的規制、およびそのことのうちに含まれている、人間たちが彼自身の生産物に対してふるまうときの疎遠さの消滅とともに、需要と供給の関係の力は無に帰し、人間たちは、交換、生産、かれらの相互的行動のやりかたをふたたび意のままにするのだが。」(46)

 

◆共産主義の物質的前提としての生産諸力の発展

・《疎外》克服の実践的前提:@無所有で富と教養に敵対する「大衆」の形成、A生産力の発展による人間の普遍的交通の確立

→諸民族の依存関係によって、世界史的な、経験において普遍的な諸個人を形成する。

・「共産主義は、経験的には、主要な諸民族が《一挙に》、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提としている。」(45)[マルクス欄外注記]

・「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名付けている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる。」(46[欄外注記])

 

◆唯物論的歴史観の諸結論。歴史過程の継承性、歴史の世界史への転化、共産主義革命の必然性

・「歴史とは、個々の世代の連続に他ならなず、それぞれの世代は、以前のすべての世代から贈られた諸材料、諸資本、生産諸力を利用するのであり、したがって、一面ではまったく変化した状況のもとで、受け継がれた活動を継承し、他面ではまったく変化した活動によって、これまでの古い状況を変更する。」(47)

・「全面的な依存、この諸個人の世界史的協働の自然成長的形態は、共産主義革命によって、……制御と意識的支配へ変えられる。」(49)

・「社会からどんな利益も受けない一階級、社会の外に押し出されているので他のすべての階級との決定的な対決を強いられる階級」→「この階級から、根本的革命の必然性についての意識、共産主義的意識が出てくる。」(49-50)

 

◇意識形態のあらゆる形態と産物は、精神的批判ではなく革命による実在的な社会関係の転覆によって可能になる。(51)

◇環境が人間をつくり、人間が環境をつくる(52)

◇これまでの歴史観にたいする批判(52-)

 

V〜

◆支配階級と支配意識

・「支配階級の思想は、いつの時代にも支配的思想である。すなわち社会の支配的な物質力である階級は、同時にその社会の支配的な精神力でもある。……支配的な思想は、支配的な物質的諸関係の観念的表現、すなわち、諸思想として把握された、支配的な物質的諸関係以外のなにものでもない。」(59)

 

◆共同社会

・「分業による人格的な諸力(諸関係)の、物的な諸力への転化、これがふたたび廃止されうるには、それについての一般的観念を頭の中から追い出すのではだめなのであって、諸個人がこの物的な諸力を再び自己の支配下に従属させ、分業を廃止するのでなければならない。このことは共同社会(Gemeinschaft)なしには不可能である。共同社会のうちにのみ、各個人にとって、自己の諸素質をあらゆる方面に発達させる手段が存在するのであり、したがって共同社会においてはじめて、人格的自由が可能となる。」(85)

・「真の共同社会性においては、諸個人は、かれらの連帯[連合]のうちで、また連帯[連合]をとおして、同時に彼らの自由を獲得する。」(85)

 

◆偶然性と物的強制力

・「人格的個人と階級的個人との区別、個人にとっての生活諸条件の偶然性は、それ自体ブルジョアジーの産物である階級の登場とともにはじめて現れる。諸個人相互の競争と闘争とが、はじめてこうした偶然性それ自身を産出し、展開する。したがって、観念のなかでは、諸個人は、ブルジョアジー支配下のもとで、かれらの生活諸条件が偶然的であるのだから、以前に比べてより自由であるが、実際にはもちろん、かれらはより不自由である。なぜなら、以前よりもいっそう物的な強制力に従属させられるわけであるから。」(86)

・「貨幣によって、あらゆる交通形態と交通それ自体とが、諸個人に偶然的なものにされている。」(95)

 

◆共同社会とコントロール

・「自分たちとあらゆる社会構成員の存在諸条件を、そのコントロールのもとにおく革命的プロレタリアたちの共同体の場合は、全く逆であって、共同体に、諸個人は諸個人として参加する。それは、まさに、諸個人の自由な発展と運動の諸条件を、自分たちのコントロールのもとにおく諸個人の結合(もちろん今日の発達した生産諸力という前提の内部で)である。それら諸条件は、これまで偶然にゆだねられていたのであり、そして、まさに諸個人の個としての分離によって、分業とともにひきおこされ、彼らの分離のために彼らにとって疎遠な紐帯[きずな]となってしまった彼らの必然的な結合によって、個々の個人からは自立していたのである。……一定の諸条件の範囲内で偶然性を楽しんでもよいというこの権利は、これまで人格的自由と呼ばれてきた。」(89)

・「共産主義がこれまでのすべての運動から区別される点は、それが、これまでのすべての生産と交通との諸関係の基礎をつくがえし、はじめて自覚的に、すべての自然成長的諸前提を、これまでの人間たちの手になるものとみ、それらの自然成長性をはぎとって、結合した諸個人の力に服せしめるところにある。それゆえ、共産主義の制度は、本質的に経済的であり、これらの結合の諸条件の物質的創出である。……共産主義が作り出す仕組みとは、諸個人を離れて自律しているいっさいの仕組みを不可能にする[余地をなくす]ための現実的土台である。」(89)「自律」とはなにか。

 

◆自己表現と労働

・生産労働=自己表現⇔目的としての物質的生活/手段としての労働

・分業のすすんだ私的所有社会では、労働は生活を不快にするものとして位置づけられている。「以前の諸時代には、自己活動と物質的生活の産出とは、それらが別々の人物に属したことによって分けられていて、物質的生活の産出は、……低級な種類の自己活動とみなされたが、これに対して、今日では、一般に物質的生活が目的として現れ、この物質的生活の産出、すなわち労働……が手段として現れるほどに、自己活動と物質的生活の産出とはバラバラになっている。」(97)

 

■下部構造が上部構造を規定する

・物質的生産関係が意識・思想を規定する→物質的生産関係を変革することによって、新たな(来るべき)意識と思想を展望する。